こんにちは、愛弓です。
ここ数年、『理解してもらいたい』とか『誤解されたくない』という思いが強くなったような気がします。
いや、昔はそういう思いが強かったんですよ。
でも、セラピストとして活動していく中で、そういう思いが薄れていったんですよね。
別に、『ぜんぶ理解してもらいたい』なんて思わなかったし、誤解されてても『まぁ、いっか』って感じだったんです。
でもここ数年、また『理解してもらいたい』とか『誤解されたくない』って思いが強くなってるような気がするんですよね。
ブログを書く時、『初めての人にも理解してもらいやすいように…』みたいに、誰かのためを思ってるなら問題ないとは思いますが…
それだけじゃないような気がするんですよね。
私の場合は、
ブログを書く以前にお付き合いしていた人に、自分を否定され続けられる…という経験をしました。
ブログを書くようになってからは、家族に、自分の感覚を否定され続ける…という経験をしました。
家族が突然変わってしまったわけではなく…幼い頃からずっと否定されることが多かったことに、最近になって気づいたんですよね。
そんな中で私は、自分が傷つかないように守るために、『誤解されないように、ちゃんと説明しなきゃいけない』という思いが強くなっていったのかもしれません。
自分の感覚を否定され、受け入れてもらうことのできない環境にい続ければ、『理解してほしい』とか『誤解されたくない』という思いはどんどん強くなっていくんですよね。
そんなことを感じました。
そして、
自分の感覚を否定され、受け入れてもらうことのできない環境が、自分だけの力では変えることができないことに気づいたなら、そこを離れるべきだなと。
自分の感覚を否定されたり、受け入れてもらえない環境にい続ければ、『理解されたい』とか『誤解されたくない』という思いが、どんどん強くなっていくのかもしれないなって。
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元上司のマッサージを受けたら、ブログを書きたくなった
先日、セラピストになった頃にお世話になってい上司に会いに行ってきました。
「元上司に会いに行った」と言っても、普通の会社とは違い、リラクゼーション店です。
なので、「元上司のマッサージを受けに行った」という言い方の方が正しいかもしれません。
正直なところ、元上司のマッサージを受けたからといって、それをブログに書く必要があるとも思わなかったし、誰かに伝える必要があるとも思いませんでした。
日常的なことと同じように、ごく普通の出来事として過ぎ去ると思っていたからです。
でも実際には、元上司に会うまでに様々な心の葛藤がありました。
そして、過去のことをたくさん思いだしました。
『元上司に伝えよう』と思っていた言葉をちゃんと伝えることができず、元上司のマッサージを受けながら、自分のやってきたことについて考えました。
『あぁ、そうか』と自分の中で腑に落ちたこともあったし、『忘れちゃいけないな』と思うこともたくさんありました。
でも、どんどん忘れてしまうんですよね。
だから、忘れてしまわないように…自分のために、書き残しておきたいと思いました。
『理解してもらおう』『初めての人でも…』なんてどうでもいいか
いざ『ブログを書こう』と思うと、元上司の説明や、当時の私の説明から始まりました。
たぶん、『なんか嫌な奴だな』とか『そんなに元上司は嫌な奴だったの?』『そんなに過酷な環境だったの?』と誤解されたくはないんですよね。
気づけば、前置きがどんどん長くなって…『いつになったら始めるんだろう?』という違和感が生まれました。
『セラピストとして過去の体験を書く時、どうせ、また同じ話をするんだよね…』
『今回私が書きたかったのは過去の体験じゃなくて…元上司のマッサージを受けに行って感じたことだよね? 過去の話は、本当に必要なのかな??』
※※※
そういえば最近、シャンプーのことをブログに書いてるんですよね。
同じような話を何度も何度も書いてるような気がして…『本当に、それって必要なのかな?』って思ったりもする。
今ここで書くのは、今日使ったシャンプーの話で…
シャンプー選びへの思いとか、どうしてそういう考え方をするようになったのかを何度も何度も書く必要ってないんじゃないかな?って。
もしも、その記事を読んでくれる人がいたら…そこで聞きたいのは、そのシャンプーのは話がメインなんですよね、きっと。
もちろん、シャンプー選びへの思いとか、どうしてそういう考え方をするのかを書けば、そこに共感したり、興味を持ってくれる人もいるかもしれない。
でも、何記事も読んでくれる人たちにしてみれば、『あぁ、この話、前にも読んだことあるな』って、気持ちをそがれちゃうかもしれない。そんなことも思いました。
だから、何度も何度も同じ話を1から説明する必要なんてないんですよね。
それに、私の話がぜんぶ正しいわけじゃないんですよね。
人によって感覚もとらえ方も違うんだから、1からぜんぶ説明して、同じ考え方をする人を量産する必要はないんですよ。
全部を理解してもらう必要なんてないんですよね。
だからね、
『全部を理解してもらおう』とか
『初めて来た人でも、どんな人が何を書いてるのかが解りやすいように…』なんて気にしなくてもいいかなって。
読んで、興味を持ってくれた人は、『どんな人なんだろう?』『他にどんなブログを書いてるんだろう?』って興味を持って、自分で探してくれると思うんですよね。
だから、そこまで気にしなくてもいいかなって思いました。
少なくとも、今は。
自分の気持ちを掘り下げてみる…
簡単に『誰かのため』と言いたくない気持ち
こういう話し方をしてるとね、まるで、誰かのためにしっかりとブログを書こうとしてるみたいで嫌なんですよね。
正直なところ、私は『全部を理解しやすいように…』とか『初めて来た人でも…』と誰かのためだけを考えて書いてるわけじゃありません。
だから、簡単に”誰かのため”なんて言いたくない。
もし、そこに誰かを想う気持ちがあったとしても…『やりたい』と思ったのも、『やろう』と決めたのも私自身だから。
それに、今はまだ、誰のためでもなく、自分のために書いていたいような気もしてるんですよね。
ただ、なんとなくブログを書いてて…自分のために書いてる部分も多くて…
『どうやって書いたらいいんだろう?』『どうしてうまく書けないんだろう?』って自分の中で悶々としてる時間が長いんですよね。
無意識のうちに”誰かのため”に書いたブログは、なんだか心がこもってなくて、窮屈で…ちょっと苦手な部分もある。
だから、”誰かのために書いてます”っぽい言葉を自分が使うのは、気持ち悪くてしょうがない。
なんだか申し訳ない気がする。誰に対してかわからないけど…
『理解してもらいたい』『誤解されたくない』と思ったのは、自分を守るためだったのかも
でもね、『なんでこんな書き方をしてるんだろう?』って考えてみると…そこには、『ちゃんと理解してもらいたい』『誤解されたくない』という思いがあるんですよね。やっぱり。
そこには、誰かのための優しさも少しくらいはあるんだろうなって…信じたい気持ちもある。
同時に、理解されなかったり、誤解が生じて、いろいろ言われた経験があるので…傷つくことがないように、自分を守るめなのかもしれないなって。
実際に、セラピストとして経験を重ねて、独自性が強くなるほど…人に理解されないこと・誤解されることに悩むようになりました。
でも、セラピストという仕事は、自分のやってることを理解してもらう仕事じゃないんですよね。
理由なんか知らなくても、お客様が癒されて元気に笑ってくれたら…めちゃくちゃ嬉しいんですよ。
人に理解されないことも、誤解されることも受け入れるようになりました。
ブログを書き始めて、全く別の業界の人と話すことが増えたことで、さらに理解されないこと・誤解されることに悩みました。
社会人経験が浅く、会社や上司を悪者のように思ってる人と話すときも…そうでした。
悩む…と言うより、諦めるようになったのかもしれません。
『理解されないことも、誤解されることも、仕方がないことだから…』と諦めるようになったのかもしれません。
『誤解だよ』と伝えよとしても話を聞いてもらえなかったり…
説明しようとしても、見えてるものが違いすぎて、表面上でしかとらえてもらえなかったり…
自分の思い込みの中で、被害妄想ばかり膨らんで…なんだかものすごく悪者扱いされたり…
私の言ってることが間違ってるわけじゃなくて、そういう考え方を知らないだけなのに…一方的に否定したり、「意見を押し付けるな」って怒ったり…
そんな中で、諦めるしかなかったのかもしれないですね。
説明しようとするほど、傷つくのは自分自身だったんですよね。だから、理解されることを諦めるしかなかった。
でも、自分の感覚や考えを否定され続けてたら…
『ちゃんと理解されたい』『誤解されたくない』という思いは、自分でも気づかないところで、どんどん大きくなっていったんだと思います。
- 話をちゃんと聞いてもらえない。
- 理解されない。
- 誤解される。
ここ2・3年、それを1番強く感じたのは家族でした。
そして、それは子供の頃からだったのだと気づきました。
初めのうちは、苦しかった。
どうしようもないから、彼らのマネをして、話を聞かないようにしたり、理解しようとするのをやめました。
でも、そういうのってすごく苦しくて、辛いんですよね。
『よくないから…』って思うのに、心を許せばすぐ、否定され、傷つく日々。
いろいろしてるうちに疲れて、自分らしさは消えていきました。
感じたことを話すことも、笑うことも、泣くことも…何もできなくなりました。
いつのまにか『仕方ない』と諦めるようになっていて…
子供の頃のように、自分の殻に閉じこもるようになりました。
気づけば、自分の中に抑え込んだ気持ちを、体が表現するようになりました。
何度も不調で動けなくなりました。
何をしても治らないのに…家族と距離をとることを考えると、元気になる。変でしょう?w
体調を崩すと『離れなきゃいけない』と思うんですけど、元気になると『でも、もしかしたら…』って現状維持することばかり考える。
『もしかしたら…このまま見ないフリしてればいいんじゃない?』
『何とか一緒に過ごしていけるんじゃないかな?』
『もしかしたら、時間が経つにつれて変わっていくんじゃないかな?』
『私がもっと優しくなれば、状況は変わるんじゃないかな?』
家族から離れない方法ばかりを考えて…そのうちにまた動けなくなる。
それが、ここ2・3年の私です。
でも最近になって、やっと、離れる決意をしました。
否定され・受け入れられない環境にいれば、『理解されたい』『誤解されたくない』という思いは強くなる
ここ数年の間に、私の中には、理解されないこと・誤解されることへの恐怖…違和感…そういうものが蓄積されていたんだと思います。
無意識のうちに抑え込んで、自分でも気づかない状態だったものが、やっと表面化してきたのかもしれません。
だから、自分の中に『ちゃんと理解してほしい』『誤解されたくない』みたいな思いが強く浮き上がっていたのかもしれません。
そして、それに気づいて、『変わりたい』と思うようになったのが現状かもしれません。
もちろん、『理解されたい』『誤解されたくない』という気持ちも大事だし、そのおかげでできることもあると思う。
そういう思いがあるから丁寧に対応できることもあると思う。
でも、その思いが強すぎて独りよがりになってしまったり、自分が伝えたいことの邪魔になってしまうなら…そんなものは必要ないんですよね。
少なくとも今の私は、『理解されたい』『誤解されたくない』という思いへの違和感を感じています。
セラピストとして、ちゃんと理解してくれる人がいたり、理解はできなくても、自分の感覚を受け入れてくれる人たちがいた時って…
『理解されたい』とか『誤解されたくない』って思いは薄かったんですよね。
むしろ、自分の感覚をすべて正確に理解できる人なんていないんですね。
それぞれの世界観で、それぞれの感じ方をしてくれてればよくて…。
大事なのは、それぞれが、自分に必要な何かに気づいたり、癒されたりすることだったなって。
別に、理解される必要もなかったし、誤解されたってよかったんですよね。
なのに、ここ数年の私は、理解されることや誤解されないことにこだわりすぎてたなって思いました。
自分の感覚を誤解されるだけじゃなくて、否定されたり、受け入れてもらえないことが多かったんですよね。
おまけに、自分の感覚とは違うことを伝えると、それ自体をすごく否定されてた…
相手が悪かったとか、自分がどうとか…そういうことじゃなくてね。
ただ、自分の感覚を否定され、受け入れてもらえない環境に身を置いてたんだなって。
自分の感覚を否定され、受け入れてもらえない環境が続けば…『もっと認められたい』『理解してほしい』『もっと私の話を聞いて』という思いは強くなりますよね。
そうやってバランスを崩してる自分に気づいたなら…環境を変えた方がいいなって。
今の私は、そんな風に思いました。