【読みたいことを、書けばいい。】書きたいことを肯定してくれる本だった。

こんにちは、愛弓です。

先日、【読みたいことを、書けばいい。】という本を読みました。


今回は、【読みたいことを、書けばいい。】を読みながら、個人的に考えたことを書いていこうと思います。

購入前に考えたこと、ブログを書きながら気づいたことなどは、後日、ブログに書いていきたいなと思います。


また、ここで触れるのは、私が何かを思い出したり、考えたきっかけになった部分です。

本来の解釈とは異なる部分もあるかもしれませんし、人によって感じ方は全然違うと思いますので…

気になる方は、実際に読んでみたらいいんじゃないかなと思います。

愛弓
愛弓

【読みたいことを、書けばいい。】は、

私にとって、自分のやりたいこと(書きたいこと)を肯定して、背中をおしてくれる本だったよ。

【読みたいことを、書けばいい。】を読んで印象に残った、4つの言葉。

【読みたいことを、書けばいい。】を読んで、印象に残ったところが4か所あります。

  • 事象と心象が交わるところに生まれる文章
  • ターゲットなど想定しなくていい
  • 言いたいことを書いてる人がいない。じゃぁ、書くしかない。
  • 物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛


今回は、この4つの言葉を使って、私自身が考えたことを書いていこうと思います。

事象と心象が交わるところに生まれる文章

私はもともと、セラピストだった頃の体験を書くために、ブログを書き始めました。


でも、今もほとんど書いてないですし、過去に書いた記事もほとんど削除してしまいました。

その理由の1つに、『私の書いた文章を読みたいと思ってくれる人はいるのか?』という不安があります。

そんなことを考えるようになった理由には、「そんなものを読みたい人はいない」と否定されたり、「自信なんて持っちゃってんの?」と鼻で笑われたりされた体験があるのかもしれません。

でも、それ以上に不安な気持ちがあったんだと思います。

『私の書きたい文章を、本当に、読んでくれる人はいるのかな?』

『もしかしたら、誰にも読まれないんじゃない? 誰にも必要とされないんじゃない?』

そんな不安な気持ちがあったから、彼女の言葉を受け入れてしまったんだと思います。


そんな私にとって、”ネットで読まれる文章”というのは、すごく気になるワードでした。

そして、”事象と心象が交わるところに生まれる文章”という言葉を見た時、自分のやりたいことを肯定された気がしました。


セラピストとしてなんとなく日常を過ごしてきたわけではなく、『目の前にいるお客様をもっと癒せるように…』と、私なりに”癒し”というものを追究してきました。


私が『日常』と思ってるごく普通のことが、誰かにとっては驚くようなことだったりもして。

私が『普通だ』と思ってる知識や感覚、考え方が誰かにとっては新鮮なものだったりする。

いろんな人たちと関わっていくなかっで、そんな発見がたくさんありました。


”セラピストだった頃の体験・そこから何を感じ・どう行動してきたか”というのが1つの事象だとすれば、今の私だから考えることというのは心象かもしれない。

だとすれば、それはもう、事象と心象が交わるところに生まれる文章になるのかもしれないな…と。


それ以前に、

”セラピストだった頃の体験・そこから何を感じ・どう行動してきたか”ということ自体が、事象と心象が交わるところに生まれる文章になりうるのかもしれないなと…。


こうやって文章にすると長くなりましたが…

その文章を読んでる一瞬で、『自分の体験と、そこから感じたことを書きたい』という漠然としたイメージを一気に肯定されたような気がしました。

ターゲットなど想定しなくていい

セラピストとして集客のためのブログを書いていた時期は、やんわりとした優しい文章を書いていた時期もあります。

『相手に受け入れてもらえるところまで…』と、自分の本心を抑え込んでいる言葉も多かったような気がします。

別に悪いことじゃないんだけど…なんだか苦しかったんですよね。

解釈を間違えて、誤解したまま進んでいってしまう人とか、自分に都合よく解釈していく人たちを見ながら、『なんか嫌だな』って。

『そうじゃなくて…』と説明したかったけど、相手が傷つくのが恐くて、誰かの考えを否定するような言葉・そういう解釈につながりそうな言葉が書けなかったんですよね。


『もっとシンプルに、自分の体験と考えを書いてみたい』

『自分をさらけ出したい』

そんな思いをもってブログを書き始めた時、ブログを読んだあるブロガーさんに否定されました。

そして、「ブログを書くときは、ターゲットを想定したほうがいい」と言われました。


でも私は、その言葉を受け入れることができなかったんですよね。

個人的には、『ターゲットを想定しなくても大丈夫じゃないかな~』と感じていました。

…というより、ターゲットを想定するのが嫌だったので、適当に聞き流していました。

自分が『やりたい』『書きたい』と思ってるものを表現してみて…それで結果が出なかったときに、ターゲットというものを考えてみればいいと思っていました。


だけど、

  • 「人のアドバイスを聞かない人は、成長しない。結果が出ない。」
  • 「アドバイスを聞かない人に教えても、時間の無駄だ。」
  • 「独りよがりでいいなら、そのままでいればいい。」

そんなことを言われてるうちに、「ターゲットを想定したほうがいい」というアドバイスを聞かない自分がダメな奴だって言われてるような気がして…胸が苦しくなっていきました。

「ターゲットを想定しなきゃいけない」という言葉と、『ターゲットを想定しなくない』という気持ちの間で、動けなくなっていきました。


ここ最近は、『やっぱり、ターゲットを想定しなくていいんじゃないかな』という気持ちの方が強くて、自分なりにその理由もあったりします。

でも心のどこかに『やっぱり、ターゲットは想定したほうがいいんじゃない?』とか『ターゲットを想定しなくても、本当に大丈夫かな?』という不安があるんですよね。

…とはいえ、そんなに心配ばかりしていても、答えなんてわからないんですよね。

自分の中に、『ターゲットを想定せずに書いてみたい』という気持ちがあるなら、ターゲットを想定せずに書いてみないと、その結果なんてわからない。

だからとりあえず、『ターゲットを想定せずに、自分なりに書いてみようかな~』と思っています。

そんな私にとって、【ターゲットなど想定しなくていい】という言葉は、それだけで私の気持ちを肯定してくれる言葉でした。

言いたいことを書いてる人がいない。じゃぁ、書くしかない。

「私が言いたいことを書いてる人がいない。じゃぁ、書くしかない。」

この言葉を見た時、自分の中にあった言葉をドンって目の前に置かれてるような気持ちになりました。


以前、誰にも読まれないブログを書いていた時に、これとに似た言葉を、何度も何度も書いていました。

私は別に、文章を書くのが得意だからブログを書き始めたわけじゃないんですよね。

目立ちたかったわけでも、偉そうに誰かに教えたかったわけでもない。

できることなら、目立ちたくなんてなかったし、自分の意見なんてブログに書かかずに、静かに暮らしていたかったのかもしれない。


私はただ、目の前に入りお客様の体に触れて、『何を感じてるんだろう?』『体や心は、何を伝えようとしてるんだろう?』なんて考えてるのが楽しかった。

お客様の体や心に触れて、深く深く入っていく感覚が大好きで。

心を許せるような、自分の感覚を受け入れてくれるお客様や仲間たちと一緒に過ごす時間が大好きだった。

そんな幸せな時間が、そのまま続いていってくれればいいと思ってた。


確かに、学生時代は”自分の夢”を叶えられる場所が見つからなかったから、『自分っで作らなきゃいけない』と思った。

でもセラピストになってから、癒しにもいろんな形があることを知った。

いろんな人がいて、いろんな幸せがあることを知った。


『私が立ち上がらなくても、誰かがやってくれるんじゃないかな?』

『誰かが叶えてくれるなら、私はその人を静かに見守ってればいいな~』なんて思ってた。


でもね、『目の前にいる人を、より深く癒していきたい』という気持ちは捨てられなかった。

『もっと深い癒しを…』と自分なりに探求してるうちに、『この人みたいになりたいな』『この技術を勉強したいな』と思えるものがなくなってしまったんですよね。

ふと気づいたら、自分が求めてる癒しに1番近いことをやってるのが、自分自身だった。


でも、『自分が1番』なんて考えがおこがましいと思っていて…

いろんなマッサージを受けて、カウンセリングやヒーリング・セラピー…いろんなものを受けていくうちに、『そうじゃなくて…』と何かを教えたい衝動が湧き上がってくるようになってた。


たぶん、私が届けたい”癒し”を提供してる人がいなくて…少なくとも、私には見つけることができなかった。


愛弓
愛弓

私が求めてる”癒し”を、自分以上に追究してる人が見つからない。

だったら、私が表現するしかないな。

お客様に触れながら、毎日のようにそんな気持ちが浮かんでくるようになった。

そんな思いの積み重ねがあって…

それでも『動きたくない』『このままでいたい』と思ってた私の背中を押すような状況がやってきて…

  • 「もっとたくさんの人に会わなきゃいけない」
  • 「もっと広い場所に行かなきゃいけない」
  • 「もう帰ってきちゃだめだよ」

そんな言葉をかけてくれた人たちがいたから、ブログを書いてるんだと思う。


ブログを書き始めたら、

『あれ? 私がやらなくても、わたしの伝えたかった癒しを発信してる人がいるんじゃない?』と思った。

愛弓
愛弓

だったら、私がやらなくていいよね?

他の人たちに任せちゃおう♪

だけど、時間がたつにつれて、なんとなく違和感を感じるようになった。

表面上は同じに見えても、内側にあるもの(ベース)が私の伝えたいものとは違った。


愛弓
愛弓

私が伝えたいことを書いてる人がいない。

むしろ、誤解が生じたり、方向性がおかしいものもあるような気がする…

それでも、表現することが恐かった。

誰かに否定されてしまうことが恐かった。

自分の考えの間違いを見つけてしまうことが恐かった。

愛弓
愛弓

でも、誰も書いてないなら…

私が表現していくしかないよね。

そんな気持ちが心の中にあるから、何度も何度も書いてたんだと思う。

『書いてる人がいないなら、自分が書くしかない』

『やってる人がいないなら自分がやるしかない』


本を読んで、何を学んだかなんてわからない。

ただ、【言いたいことを書いてる人がいない。じゃぁ、書くしかない。】という言葉によって、

『私が書くしかないな』

『私の思う”癒し”は、私が自分で表現するしかないな』っていう気持ちが刺激されたのは、確かだと思う。

物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛

ここまで読んでくれてる人は気づいてるかもしれませんが…

【読みたいことを、書けばいい。】という本は、私にとって、自分のやりたいこと(書きたいこと)を肯定してくれてる本だと感じていました。(かなり都合のいい解釈ですが…w)

だけど、【物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛】という言葉で、この本に向ける感情が一気に変わりました。


正直なところ、【物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛】という言葉を聞いて、すごく抵抗感を感じたし、読むのをやめたくなりました。

『読みたくないな~』と嫌な気持ちになりながら、最後まで読みました。


「自分の気持ちや考えなんて、ほとんど書かなくていい。調べて調べて…調べた事実だけを書きなさい」って言われてるみたいで、すごく苦しかった。

『私の気持ちは? 考えてきたことは??』って。

今まで、『この本は、自分の気持ちを肯定してくれてる』と思ってたぶん、嫌な気持ちはを強く感じたんじゃないかとも思う。



でも、読み終わるころにふと思いました。

愛弓
愛弓

もしかして、

【事象=私のとっての体験】なんじゃない?

私は、セラピストだった頃の体験を書いていきたいと思ってるんですよね。

その中で感じたこと、考えたこと、その後の行動…とにかく、自分の体験を書きたいと思ってるんですよ。

そこには、自分自身が学んできたことや、正解がない中で自分なりに出してきた答えも含まれているんだと思う。


自分では『ただの体験』だと思っていても、その中でたくさんのことを感じて考えて…長い年月をかけてたくさんの人に触れて…そうやって調べ続けてきたことかもしれない。

自分では『ただの体験だ』と思ってるそれが、誰かのとっても”ただの体験”とは限らないんですよね。


もしも【事象=私の体験】と考えるなら、私は自分自身の体験と、それに対して”今の私が考えること”を書いていけばいいんだと思う。

過去の体験の中で、自分が考えたこと、行動したこと、その結果を書いていけばいいんだと思う。

それなら、私の書きたいことだなと。


『自分の体験・感じたこと・考えたこと…そういうものを書きたい』

それを言葉にするたび、いろんな人に「そんなんじゃダメだ」と言われたり、「もっと考えなきゃいけない」と言われてきた。

でも、考えても考えても、書いてみなきゃわかんないんですよね。


【物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛】

その言葉が示していることとは、全然違うかもしれない。

でも私は、『結局、自分の体験を書いていきたいんだな』ということを改めて感じました。

そして、

うまく言葉で説明できないんだけど…とにかく『書いてみればいいじゃん』『書かなきゃわかんないじゃん』と思いました。

【読みたいことを、書けばいい。】は、私のやりたいこと(書きたいこと)を肯定して、背中をおしてくれる本だった。

ここまで、【読みたいことを、書けばいい。】を読みながら考えたことを書いてきました。

正直、読んでる最中はいろんなことがイメージのように浮かんでは消え、浮かんでは消え…そんな状態だったので、こんなにかたっ苦しくは考えていないような気がします。(^^;


でも、

  • 事象と心象が交わるところに生まれる文章
  • ターゲットなど想定しなくていい
  • 言いたいことを書いてる人がいない。じゃぁ、書くしかない。

この3つの言葉が、私のやりたいこと(書きたいこと)を肯定してくれたように感じたのは事実です。


でも、その3つの言葉だけじゃ、私は『背中をおされてる』と感じなかったかもしれません。

自分の気持ちに共感してもらったような…

『そうだよね、そうだよね~』って、安心して心地よくなるだけで終わってたんじゃないかなって思います。


最後に、

  • 物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛

この言葉と、その説明があったことで…すごく嫌な気持ちになりました。

でも、

愛弓
愛弓

もしかして、

【事象=私のとっての体験】なんじゃない?

そんなふうに思った瞬間、全然違った見え方をしてきました。



きっと、自分の考えてること・イメージを言葉にするのって難しいことで。

同じ言葉を使っていても、誰かのイメージと自分のイメージが一致してるとは限らないんですよね。

だから、自分の中に『こんなことを書いていきたい』ってイメージがあるなら、とにかく書いてみればいいんですよね。

書いてみなきゃ、それが正しいか、同じものを指してるかなんてわからないんですよね。


【物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛】

その言葉に触れたことで、『とにかく書いてみればいいじゃん』って、今までより気楽に動けそうな気がしました。

今までの私は、頭でばっか考えてて、動けてなかったんだなって。そんなことを思いました。


  • 事象と心象が交わるところに生まれる文章
  • ターゲットなど想定しなくていい
  • 言いたいことを書いてる人がいない。じゃぁ、書くしかない。
  • 物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛

この4つの流れがあって…

私にとってこの本は、自分のやりたいこと(書きたいこと)を肯定して、背中をおしてくれる本だったなと思います。

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